アドラー勉強中(3)

アドラー心理学について、珍しく本を買って(いつもなら動画サイトとかまとめサイトで済ませるところですが)真剣に勉強しようとしています。面白い理論(または思想)ではありますが、やっぱりちょっとクセがあるような。

根底にある考え方は、世界は変えられるということです。といっても、革命を起こして世界を変革するとかそんな大げさなものではなく、世界の見方を変えるということです。つまり、主観的な考え方ですね。そして、人は今すぐ幸福になれる。これも主観的な話です。今の世の中を見て、なんとひどい世界だろうと悲観するか、何とか生きられてるからいいかと思うか。

ちょっと話がそれますが、ブータンは幸せの国といわれています。それは国民の幸福度(幸福だと思っている人の割合)が高いからだといわれています。かと言って日本よりも豊かで満たされているかといえばそうでもないようです。治安がよいわけでもない。それでも、多くの国民が今の生活が幸せだ、満足だと思えば、幸福度は高くなるわけです。つまり、幸せって主観なんですよね。そこにヒントがある気がします。アドラー心理学で今すぐ幸せになれると説く人は、みんなが今すぐ億万長者になれる、異性にモテモテになるとかいう意味で幸せになれるといっているわけではないです。

では、何故に人は幸せになれるのか。それに関わるキーワードがあります。自己受容というものです。つまり、今の自分を受け入れるということですね。ビンボーでもモテなくても140km/hのナックルカーブが投げられなくても、自分を受け入れて自分の存在が価値あるものだと思う。もう少し細かく言うと、「自立すること」と「私には能力があるという意識」となるそうです。それを助けるのが他者信頼、そして他者貢献なのです。

ちょっと話が長くなるのを覚悟で書きますけど、他者信頼は文字通り他者を信じること。と言っても、もちろん中にはイヤなやつはいます。自分を認めず、何かとバカにしてきたり、自分の功績を評価しない人。そういうのは無視します(断言)。イヤなやつは無視して、仲良くなれる人を大事にする、その人を中心に考えれば、自分の敵になる人って案外少ないことに気付きます。自分の信頼が置ける人、邪魔をしない人を中心に据えれば、他者信頼は実現できます。他者信頼のためには「社会と調和して暮らせること」、「人々は私の仲間であるという意識」が必要です。

それができたら、次のステップである他者貢献になります。他者から感謝されたり賞賛されなくても、共同体(学校とか職場レベルでよいです)で他者に貢献できること。目に見える効果がなくても、周りの人に「ありがとう、助かるよ」なんて言われなくても、共同体の仲間にプラスになることができれば他者貢献は実現できています。やや自己満足に近いかもしれませんが、実現しているのです(キッパリ)。ちなみに、本の中では例として専業主婦の事が書いてありました。旦那が食器の片付けを手伝ってくれない、子供はとっとと自分の部屋へゲームしに行く、なんで私ばっかり家事をやらないといけないの?と思うより、私は感謝されなくても家族のために貢献できている、そう考えると怒る気持ちはなくなるとか。どうかな?全国の専業主婦が抗議してこないか心配だな。

また、学校や企業の人間関係に悩んでいる人に言いたいことは、共同体をもっと大きな枠組みでとらえようと言うことです。例えば、学校の先生がとても偉そうだ、職場の上司が絶対的な権力を持っている、と自分を取り巻く環境が問題を抱えているとします。しかし、待ってください。学校の先生が威張れるのは学校の中だけ、職場の上司が横暴を働けるのは会社の中だけです。特に社会人になったら、合わない職場なんて辞めてしまえばいいのです。これは自らの体験も含まれますが、会社の経営方針がおかしい、上司の頭がおかしい、正社員なのに給料がコンビニバイトより安い!そういう会社からは抜け出すようにしてきました。退職届を叩きつければ、頭のイカレた上司との関係はそこでおしまいです。

前に、人間関係を縦の関係で見てはいけないという話をしました。そこから派生する考え方は人を褒めてはいけない、叱ってもいけないというものらしいです。じゃあ、どうするんだよ?という疑問は湧いてくると思います。そういう時は感謝の気持ちを述べます。つまり、ありがとうとかそういう言葉ですね。ありがとうという言葉は対等であり、そこに対人関係の順列を作るものではない(つまり横の関係)。それがアドラー心理学の主張です。それで相手に伝わるのか?もう1つアドラー心理学のキーワードがあります。それは、勇気づけというものです。感謝の言葉を述べ、相手にあなたは共同体に貢献している(他者貢献できている)ということを認識させるのです。それが生きる勇気につながっていく、そういうことらしいです。

自己受容、他者信頼、他者貢献を順番に書きましたけど、そういう順番に並んでいるのではなく、これらはお互いにつながったものです。自分の能力を意識し、周囲の人を敵ではなく仲間だと思う、そうすればこの世界に自分の居場所はできる(共同体感覚)、そして仲間のためにできることをして役に立つ(他者貢献)ということになります。

もう1つ、アドラー心理学で出てくる言葉に「人生の嘘」というのがあります。これは、何かと理由を付けて人生のタスクから回避することだそうです。ちょっと話が前後してしまいましたが、フロイトの提唱する説は原因論、つまり過去に原因があって、それが今の自分を形成しているという考え方です。アドラーはそれにまともに反対しています。アドラーの説は目的論と言われています。過去は関係なくはないが、それが原因ではない。過去のことに対する意味付けによって現在は変わる。自分が不幸なのは過去に問題があったからではなく、それを言い訳にして変わらない決意をした、(それは変わることを恐れているから変わらないという目的による)からだと主張しています。

自分が不幸なのは、子供の頃の家庭が貧しかったからだ、両親が小さい時に離婚したからだ、就活したのが就職氷河期だったからだ、と過去に原因を求めて、現状を納得させる人もいる。じゃあ、同じ境遇の人はみんな同じように不幸なのか?同じように悲惨な人生を送っているのか?そうではないはずです。過去の出来事が原因となるのではなく、そこにどんな意味付けをするかで現在は変わるというのがアドラーの主張です。過去に囚われずに幸せを目指すために必要なのが勇気なのです。現状を変えることを恐れず、幸福に向かって進むための勇気です。

長くなってしまいましたが、最後にNさんの迷言を一つ。「アドラーは承認を否定している。だから私は君を承認しない。」などと意味不明な発言をされて、リアクションに困ったことがあります。やっぱり理解してな(ry ちゃんと書いておくと、アドラーは承認欲求を否定しているのです。承認とは他人がするものだから、それに囚われると他人の基準に合わせることになり、他人の人生を生きることになる。つまり、他人の意見に振り回され、自分を失うということになりかねない。基準はあくまで他人ではなく自分であり、理想の自分が目標です。ピアノが上手に弾けなくてもいい、100mを9秒台で走らなくてもいい、日本の元号を大化から令和まで丸暗記しなくてもいい。自分なりの目標、理想があるはずです。それを目指せということなんですが。

一応読み終わったので、次回はまとめを書こうと思います。まとめにならないかもしれませんけど。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。

アドラー勉強中(2)

本を読み進めてみて、このアドラー心理学というものがかなりクセがあるものだということを次第に実感し始めています。なるほど、万人受けするものではないけれど、それでも真理はある程度あるのかもしれません。

アドラー心理学のキーワードの1つとして共同体感覚というものがあります。英語ではSocial interest(社会的な関心)というらしいです。ここでいう共同体とは、いわゆる地域社会、さらには小さな単位として職場、学校、さらには家庭などのコミュニティという印象が強いですが、アドラーの考える共同体とはもっと大きなものです。分かりやすくいえば、この世に存在するもの全て、宇宙を指すらしいです。また、空間だけでなく時間的な広がりもあります。すなわち、過去から未来までを含んだ世界。つまり、時間的にも空間的も無限に広がった世界を共同体と呼ぶようです。この辺りでもう脱落しそうですけど。。。

アドラー心理学の出発点は自分と他者との課題の分離でした。他人の言うことを気にせず、自分の課題に取り組む。他者と比べるのではなく、理想の自分と比較することで成長する。そこからのゴールが共同体感覚だと言います。なるほど、分からん!共同体感覚とは共同体において自分が如何に貢献できるか、そして共同体の中に自分の安らげる場所を見つけるということらしいです。そのためには、他者を敵ではなく仲間だと見なすこと、その仲間に自分がどう貢献できるかを考えることが大事だと、アドラーは説いています。

ここで仲間に貢献するというのは、彼らに有用な行動を取って感謝されるということに止まらず、存在そのものを貢献とする。つまり、仲間(家族や友人関係)において自分が存在することで彼らに貢献する。よく分からないです。ただ、自分が病気になってベッドにくくりつけられる生活を送っていたとしても、周りの人は自分が生きている、無事でいることを喜んでくれるはず!そういうものが存在による貢献だそうです。かなり宗教色を増してきましたか?

それと、対人関係については横の関係を持つこと。縦の関係を持ってはいけないというのもアドラーの主張です。典型的な縦社会の現代社会において、何言ってんだコイツという気持ちもありますけど、上司と部下、先輩と後輩という縦の関係を意識すると、友人関係でも縦の関係を持ってしまう。つまり、あいつには勝ってるけど、こいつには負けてるな、とかAくんは頭がいいから言うことを聞こう、でもBくんはバカだから適当に無視しようとかそういう考えが、縦の関係を持つということらしいです。そして、縦の関係で人間関係を見てしまう人はあらゆる関係を縦の関係として見てしまう。そうではなく、全ての人を対等に見る(平等ではなく対等という概念はよく出てきます)ことによって全ての人を横の関係で扱う。それが、共同体感覚というものだそうです。

うーん、にわかに受け入れがたい、いや理解が難しい概念が登場しました。しかし、相手が上司であれ、社長であったとしても、「いや、オレはこの方がいいと思います。こうするべきだと思います」と主張する人は、横の関係を構築することができている人なんでしょう。心理学というより、1つの思想、自己啓発的なニオイすらしますね。

あ、余談ですけど、あのややこしいNさんがやたらと主張してきたことは、どうもSNSでアドラーとググった時に出てきた言葉を、何も考えずに貼り付けていたようです。しかも、これがアドラーの本質だ!などと豪語されていました。コピペするにも、元ネタがバレバレのことをするなんて。真面目に勉強している人に対して失礼だとは思わないんでしょうか。是が非でも自分を押さえつけてやろう、オレが(Nさんが)自分の上位に立つんだという執念は感じました。ただ、やり方があまりに浅薄だとバレやすいし、印象を悪くするだけではないかとも思いました。NさんがSNSをブロックするのをやめてもらわないと、こちらの主張は一切届かないので、どうすることもできませんけど。アドラー心理サロンのありがたい言葉をコピーしたって、一時の感銘は得られても本当に理解したことにならないのでは?いや、その前に感銘を受けでもしたのでしょうか。でも、それは他者の課題なのであまり深入りしないことにします。

アドラー勉強中(1)

とりあえず、アドラー勉強中ということで、ここまで感じたことをちょっと書いていきたいと思います。本当に思ったことを書くだけなので、中途半端きわまりない文章になるであろうことを最初にお詫びしておきます。

アドラー心理学(便宜上そう呼ぶことにします)のテーマの一つに課題の分離というものがあります。自分と他者の課題を分離すること。例えば、自分の子供に(自分にはまだ子供はいませんが)勉強しなさいと命令すること。これは、アドラー心理学上はNGとされています。親は子供に勉強することの必要性を説き、また必要に応じて教材を買い与えたり、学習塾に行かせることはできる、ですがそこで勉強するかしないかは子供次第です。イギリスの諺にこんなものがあります。「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない(You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.)」馬を水辺に連れて行くのは自分の課題だが、そこで水を飲むかどうかは馬の課題である。つまり、自分にはどうすることもできない。分かりやすく言えばそういうことらしいです。

ところで、世の中には自分の課題に介入する人が多くいます。お前は仕事が遅い、お前の仕事は質が悪い、と言った具合に。仕事をこなすのは自分の課題ですけど、それを批判するのは上司の課題であって自分の課題ではないです。こいつは仕事が遅いと思ったら、それなりの分量の仕事を与えるとか、もう少し仕事の早い人に振るとか、そういうのが上司の課題であり、義務ではないでしょうか。

課題を分離すること、それは他者への介入をしないことです。それだと、子供が勉強しない、部下がサボってばかりだ、と非難されそうですが、子供はあなたではないし、部下もあなたではありません。ただ、子供は勉強しなかったら将来いい大学には入れず、就職も苦労して結局ブラック企業でこき使われることになるだろうし、部下が仕事をサボったら評価は上がらず、給料も上がらない、さらにはリストラの最有力候補になるでしょう。それは他人の課題であって、あなたの課題ではないです。子供がブラック企業に入って、引きこもりになったら親がダメージを受けると言う事態も想定されますが、それでも子供の課題は自分の課題ではないと割り切る必要があります。

もう1つアドラーの主張として、承認欲求を捨てることというのがあります。社会生活においては他人に認められることで、自分の地位を確立するものだ。そう信じてきましたが、承認欲求が過ぎると他人の顔色をうかがって仕事することになる、新しいやり方を思いついたのに上司にそんなのできるわけねーよと一蹴され、元の非効率なやり方を続けないといけない。自分の仕事をこなすのは自分の課題であり、それを評価すること(どう思うか)は周りや上司の課題です。会社では結果さえ出せば誰も文句は言えませんから、自分の課題に真摯に取り組むことが大事かと思います。

あとは、自由について。自由という言葉はとても難しいです。でも、傍若無人に己の欲望のままに振る舞えという意味ではないです。神様が見ていなくても自分にできることを続ける、自分の課題を淡々と遂行するということでしょうか。自分は神様なんて信じてませんが、自分が共同体(自分の所属する社会)に対して何ができるか、これを共同体感覚というようですが、それを持つということが大切です。

本のタイトルの「嫌われる勇気」ですが、どうもNさんはこの辺り理解されていなかったようですけど、嫌われろという意味ではないです。自分と他者の課題を分離し、その結果思い通りにならない自分に対して他者が嫌ってくることがあるかもしれないが、それを恐れてはいけないという意味です。自分は、変わり者であると自覚してますし、周りに迎合するつもりもありません(承認欲求を捨てたことになるんでしょうか)。自分の人生を自分に正直に生きていくことが大事なことではないでしょうか。ようやく、半分読み終えたところなので、まだまだ中途半端な事を書いてるかもしれませんが、次回からは軌道修正できることを期待して。。。

アドラーはじめました

アドラー心理学ってご存じでしょうか。かの有名な「精神分析入門」でおなじみのフロイト、その弟子ユングと並んでヨーロッパでは3大巨頭の一人として知られるアルフレッド・アドラーという人が提唱した心理学(?)です。最近そのアドラー心理学について書かれた本がブームになり、なんだか人気になっているみたいです。アドラー心理学については、いろんな方が説明されているのでここでは詳しく書きませんが、いわゆる心理学(精神分析)というよりは哲学に近い思想ですね。アドラー本人も、これはソクラテスの哲学の延長にあると言っているぐらいなので。

遅ればせながら、そんなアドラー心理学に興味を持ち始めました。最初は動画サイトに解説動画が出ていたので、何となく眺めていたのですが、段々興味を持つようになり、ちょっと本気で勉強しようかと本を買いました。アドラー心理学の解説ではもっとも有名な「嫌われる勇気」という本です。

ところで自分の知り合いにちょっとややこしい人がいます。名前はNさんとしておきます。何かと自分の趣味をバカにしてきたり、ちょっと面倒なんですけど、今までの付き合いもあるし適度に距離を取るようにしてたんですが(アドラー的には仕事のタスク)。そのNさんに自分がアドラー心理学に興味を持ったという話をしたところ、例によってマウントを取ろうとし始めました。最初は、「なんだ、君は今頃そんなこと言ってるのか。遅れてるね。」なんておっしゃるので、さぞやお詳しいのかと思ったら、そうでもない。それを指摘すると、焦ったのか急にアドラーの引用を始めましたが、所詮はどこかからのコピペ。多少なりとも理解していれば、そんな中途半端な発言はしないはずなのですが。

そして、アドラーの教えの中には、自分と他者の課題を混合するなというのがあります。要するに、他人が自分のことを何か批判しても、それは客観的な基準による指摘ではなく、相手が自分を思い通りにしよう、服従させようという意図があるから、気にするな。簡単に言えば相手の挑発に乗るなということです(まだ勉強中なので、違ったらすみません)。Nさんがマウントを取ろうとするのですが、自分がその教えに従い軽くかわしていたら、マウントが取れないことで機能不全を起こしたのでしょうか。他の要因もあるかもしれませんが、突然SNSをブロックしてきたのです。

突然のことに驚きましたけど、まあ去る者は追わない主義なので、とりあえず様子見することにしました。その人は断捨離と言う言葉が大好きで、よく使ってました。君も断捨離してるかい?なんて聞かれたので、自分は人間関係を断捨離するんだと言ったら、君は面白い人だと言われたことがあります。まさか、それが現実になろうとはΣ(゚д゚;)

アドラー心理学については賛否両論ありますけど、対人関係のストレスを軽減する方法(ライフハック)として有効だと思われましたので、しばらくは勉強を進めようと思います。Nさんのこともちょっと気がかりですが。あのご気性だと友達少なそうだし。もしかしたら、アドラー心理学の劇薬(「嫌われる勇気」でもその言葉は出てきます)に当たってしまったのかも。そう考えると、Nさんがブロックしてきたのも自分が原因かもしれない。ただ、以前からおかしな兆候はあったので、アドラーは単なるトリガー(きっかけ)だったのではないでしょうか。遅かれ早かれこうなる宿命だったのでしょう。

心理学という名前が付いていますが(これも批評の対象ですが)、どちらかと言えば哲学、思索の類いです。また、トラウマ(心的外傷)など科学的に証明されていることを否定しているなどクセがありますので、比較的精神状態が健全な時に読むことをお勧めします。また、アドラー原理主義(いわゆる馬鹿アドラー)にはならないようにお願いします。アドラーは競争すること(競争を対人関係の軸にすること)を否定しています。それなのに、マウントを取ろうとするって、理解度の低さを公言しているようなものです。ちゃんと理解すれば、きっと人生の助けになるはず。そう信じて勉強を進めたいと思います。

嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え [ 岸見一郎 ]

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感想(478件)

傷病手当金のこと

欠勤控除はきっちり引かれました。働いてませんからね。でもその補償としての傷病手当金がもらえるはず。そうでないと生活が苦しくなります。

その傷病手当金ですが、結論から言えば全額不支給となりました。ご丁寧に健保組合から簡易書留で通知書が送られてきました。その内容はと言うと、同一の疾病により休業した場合は、最初の給付から1年6ヶ月を経過すると支給されないということらしいです。健康保険法がどうとか書いてありましたが、どうもそういうことらしいです。

同一の疾病により複数回受給を申請するって、それって精神疾患を狙い撃ちしてるよね?作業中の事故で同じ場所を骨折とか、同じ状況で同じ車にひかれるとかそういうのは考えにくいですからね。精神疾患というのはなかなか判定しづらいし、再発の可能性(またはリスク)もありますけど、それを見越してというんでしょうか、その対策のような気がしてなりません。去年も手当がもらえたのは期間内だったからなのか。

もうちょっとその不支給決定の通知書(ペラ紙)を見てみると、調査の結果前回の支給から継続して治療を受けているため、と書いてありました。そうですね、うつ病(うつ状態)や適応障害の治療って簡単に終わりません。骨折なら骨がくっついて元通り歩けるようになれば終了ですけど、精神疾患で完治したなんてあまり聞かないし、だらだら治療(投薬)が続くのはしょうがないことだと思います。同一の疾病と見なされたのはその辺りも原因のようです。

つまり、今後は同じようにパワハラその他の要因によって倒れても、もう手当金は支給されないことが確定したわけです。少なくとも、今の健保組合はそういう判断をしたので、それが覆ることはないでしょう。主治医に傷病手当金がもらえなくなるから治療をやめてくれ、なんてシロートの自分に言えるはずもありませんし(+_+)

このままでは生活が苦しいです、そう会社に訴えると、じゃあ何とかしてやろうと言ってはくれましたが、まだ具体的な動きは何もありません。傷病手当金も失業保険と同様基本給の6割程度なので、これで家計が立ち直るわけではないですが無いよりはマシ、そんなところです。それを会社が負担してくれるなら多少は助かるんですけど。

それと、今回の件(傷病手当金が今後は支給されないという決定)を受けて、こちらも会社に宣言しました。今後同じような事態に陥り倒れることがあれば、キッパリとこの業界を去ると。会社を辞めるというレベルではありません。もうこんな腐ったIT業界には見切りを付けて、給料は下がるけれど平和な場所に行くんだと。営業はちょっとあわててるようにも見えました。じゃあ、何とかしろよ。だいたい、お前がスキルアップのためだとか言って頭のおかしいリーダーがいる現場に放り込んだのが原因だろうが。こうなる事態をある程度想定しておきながら放り込んだのは確信犯ですよ。より罪は重いです。そういう意味で、もうお前のお遊びには付き合ってられない、そういう意思表示でもあったわけです。

今のところは順調に来ています。昔働いていた実績ある場所で、メンバーも昔とそれほど変わってはいないし、ここには頭のおかしいやつもいない、概ね平和なところです。しかし、もし営業の気まぐれ(思いつき)でヘンな現場に飛ばされ、それによって倒れた場合は宣言通りIT業界に砂をかけて去ることにします。ああ、そうやってどんどんエンジニアが不足していくんだな。多くの現場が若手を育てず即戦力ばかり求める退廃的な世界にあって、自分だったら若いエンジニアを教育、育成できるのに、愚かなことだな。10連休に向かってがんばろっと。