補遺

今までの拙文において、なぜ自分が自らの命の終焉を決めたのか。ここで死ななければならないか、述べてきたと思います。ですが、これは急に思いついたものではありません。前々から考えていたことなのです。

生涯未婚者と言われる50代が近付く昨年末~今年の年始にかけて、いつものように実家に帰っておりました。特にいつもと変わりのない年末年始でしたが、この時に実家でテレビを見たりゴロゴロと酒を飲んだりしながら、もう二度とこの場所に帰ってくることはないだろうと考えておりました。両親や妹やその旦那さんを見ながら、ここで別れの挨拶も微妙な空気になるだろうからと控えはしましたが、今更彼らに別れの言葉とか感謝の言葉を述べるまでもないだろう、それほど大切にされてもなかったよね?という思いがあったので特に何も言いませんでした。特に妹夫婦については、一度女性を紹介してもらったその時に扱いがあまりにひどくてトラウマレベルでしたからね。ろくでもない相手を紹介され、それにもかかわらず報酬を寄越せと言ったあの傲慢さ、きっとあの世でも語り草になることでしょう。

アパートに住んで10年以上たち、エアコンなどの家電製品も老朽化していろいろ問題がありました。本来なら耐用年数10年以上のものを購入すべきでしょうけど、どうせ2年以内には消える命だからそんなに高いものはいらないよね、と考えて比較的安価なコ○ナ製のエアコンを購入しました。P社とかH社とかD社のいいエアコンは本体だけで10万円くらいかかります。10年使うならそれでもいいのですが、そんなに使わないから安いのでいいだろう。その判断は我ながら適切であったと驚くのでした。

あと、10年以上使っている家電で買い換えても良さそうなものはありますが、動いている限りは使おうと思っています。もし、この50歳という節目を乗り越えて、その先の10年の展望が見えたなら、その時には必要な投資をして家電を揃えようかと思います。でも、今はまだそうではない。遅くとも今年中に始末をしないといけないという予定の中で不必要なものを買うべきでない。そう思っています。

もうすぐ取り壊す家にリフォームなんてしますか?廃止が決まった路線の駅舎を新しく建設し直しますか?もうすぐこの世界から消え行くおっさんに設備投資する意味って何ですかね?

古来孔子は50歳を知命と呼びました。自分の宿命、命というものを知るという意味です。そして、僭越ながら自分も50歳になって自らの命の限界を知りました。もはやこの先に道はない。即ち人生の終着点であると。言い方を変えれば人生のコールドゲームです。このまま結婚もせず(結婚したってもはや生涯未婚者にカウントされるので、世間的に結婚したとは言いがたい)静かに朽ち果ててゆくのが自分の運命である。それを受け入れなければならない。

この後は現世との惜別と思い出作りのためにちょっと大きな旅をします。それが実質人生の終焉となるのでしょう。時期的にはあまり遅くなると年賀状の季節になるので、それまでには決着を付けたいです。最期はお世話になったK県の某研究施設に向かう路線に身を投げて、自分の存在を知らしめようと思います。自死を選ぶと言うことは当然その手段だって確立しているわけです。自宅で首を吊ったり、塩化水素ガスでも発生させて中毒死するのも一つの方法なんですけど、それじゃあ特殊清掃の人が大変じゃないか、何より大家さんが困ることになる。大家さんにはよくしてもらったので、迷惑をかけたくないです。ならば、鮮やかに事故物件になるよりはただの居住者失踪の方がダメージが少ないのではと考えているのです。

え?鉄道に飛び込んで死んだら遺族に多額の損害賠償が請求される?そうですか。そうなりたくないのなら、今までからそれを回避する方法は腐るほどあったと思うんですけどねえ。これは彼らに対する制裁でもあるのです。散々お世話になった某研究施設(おかげでかなり心は荒みました)へのお礼もしないといけない。かつて、目的地に到着する前の電車内で地元の高校生が大量に乗ってきて通路やドア付近を塞いだりいろいろ迷惑だったので、そいつらをぶっ飛ばしてやったこともあるなあ、とりあえずドア付近でぼーっと立っている馬鹿どもには正義のショルダーチャージで世界の常識を教えてやった。そういう所なんですよ。神奈川の辺境Y○Pという場所はね。

実は先週、うつ病というかうつ状態及び適応障害の治療を受けているクリニックに行ったのですが、いつものようにお変わりないですね?の一言で片付けられました。ここで大丈夫ですか?何かお悩みはありませんか?と聞かれたら状況が改善したかもしれないのに。ゲートキーパーって何ですか?ポンコツゴールキーパーのことですか?

そうですね、鉄道会社の方には本当に申し訳ないと思ってます。だが、お世話になった職場に最期のお礼を述べるには避けられない手段なのです。この現場は10年以上いて心が荒み、人生に絶望を感じる原因となったのですから。まだこれで出会いがあればマシだったんですけどね。そんなものもなかった。オッサンだらけの職場でパートナーを見つけることは困難だった。男に行くほど悟ってもなかったですね。

いのちの電話の相談 フリーダイヤル相談

繰り返しになるけど、借金を全て解消してくれて嫁さんを紹介してくれれば思いとどまってやる。そんなことはできないだろうけどね。

身近な人を亡くしたら???

身近な人が死んだら悲しいですよね。それも寿命ならまだ諦めもつきますけど、そうでない場合、例えば自らの命を自力で終わらせた場合。とても悲しいです。そうですか。そうなんですか??

じゃあ、そうなる前に対策すれば済むんじゃないですか?ええっ?何もしないで、いや取るべき策を取らないで死にました。悲しいです、辛いです。ふざけるんじゃないよ!!と言いたいです。

大切な人を自死で亡くされた方へ

世間がどうなのかは知りませんけど、狭い狭い自分の見識を述べさせてもらうと、まあよくもここまで放置してくれたよな?という思いしかないです。例えば、誰か紹介して欲しいと言っても無反応、またはたまたま近くに紹介できる人がいた、かつ紹介できる機会があった、それでもせっかく紹介してやったんだから報酬を寄越せなんて平気で肉親に言い放てる人。大したもんですよ。とりあえず手持ちのマックカードをあげましたが、ありがとうすら言わない。さも当然だと言わんばかりに持って行きました。その人とは結局うまくいかなかったのですが、成功報酬だ!と言ったことは決して間違いではなかった。そう断言できるのです。

自死ダイジェスト版

それとかなり最近ですが、親に誰か紹介しろなんて言わないよね?なんて軽い調子で言われました。ああ、そうですね、そんな人に誰か紹介しろなんてお願いしませんよ。というよりできないでしょう。そして、そうやって放置された者がその後も平然と生き続けると考えるなんて、なんて愚かな妄想なんでしょう!

身近な人を自死で亡くされたあなたのために

人が自ら死を決意するのは並々ならぬ考えがあってのことです。その前提として、周りの人、特に肉親が全く助けてくれないという悲劇的な状況に置かれた場合というのはほぼ必須なのではないかと思います。そうやって放置しておいて、いざ自殺した。私は彼を守れなかった、なんてことでしょう!などと悲劇のヒロインぶることはとても簡単です。そうやって、悲劇のヒロインのフリをすれば済むのですから。

大切な人を突然亡くされた方へ

なぜ彼は死んだのか?なんて理由探しに苦労するなどと言いますから、自分の場合は馬鹿な彼らにも分かるようにハッキリとした言葉で遺書を残します。まさか、こんな簡単な日本語が分からないほどのお馬鹿ではないよね??その時に彼らが悲劇のヒロインぶるのは勝手なのでどうでもいいですが、あなた方の作為(または不作為)によってこの世界から貴重な頭脳が失われたのだ、ということはしっかりと認識していただきたいです。

大切な方をなくされた方へ

憚りながら、自分も職場では一応戦力として評価されています。後進の教育も任されています。それでも、自分が50歳という節目を迎えて、既に生涯未婚者にカウントされている時点で、自分の人生は終わっているのです。まだまだ生きていれば楽しみがあるよ、などと無責任なことを仰る御仁もいますけど、これからの楽しみって子供とか孫とかそういうやつですよね?そこに到達できなかった者にとってもはや人生の楽しみなんてないんですよ。経験できることはほぼ経験しましたからね。それだけでなく、生きているのが辛いのです。誰かのために生きる人生なら乗り越えられるかも。でも、その誰かはいないのです。じゃあ、誰のために?老い先短い親のために?自分を蔑ろにして終活とやらに勤しんでいる腐った人たちに?とんでもない!

身近な人が自殺してしまったら

自分としては、こうなってしまった責任をあくまでも彼らに求めます。言い逃れはできない。自分が死んだのは間違いなくお前たちのせいなんだ。そのことを嫌というほど思い知らせてやります。それが自らの人生のチェックメイトを悟った者の、か弱き者の最後の微かな抵抗であると考えます。こちらからの働きかけを散々無視しておいて、あまつさえ『死ぬ死ぬ詐欺』などという心ない言葉をぶつけておきながら、死んだら被害者ヅラするのかよ。いい気なもんですね。

まあ、この状況を覆すほどの劇的な出来事(くさいドラマにあるような奇跡の出会いとか)がない限りは、この方向で進んでいきます。向かう先は地獄じゃない、パラダイスであることを信じて。

自死で遺された人にこそ「心のケア」が必要だ

ちょっと拾ったリンク先を見てましたけど、本当にふざけてますよね。何だよ、この被害妄想は。自分が死ぬのは間違いなくあなた方が原因なのに、死人に口無しとばかりに責任逃れの腐った妄言が並んでいる。そりゃあ、死ぬわけですよ。なめるな!なんなら殉死いただいた方が気持ちは晴れます。もっとも、傲慢な彼らにそんな心意気があるとは到底思えませんけどね。

終局

ずいぶんと無駄な人生を送ってきました。そしてついに年齢は50代に入ってしまいました。ここまでに結婚するとか、もしくはそれに近い状態になりたかったですが、結局ダメだったわけです。別に結婚願望がないということではない、逆に独りでいることの意味を見いだせないタイプなのですが。

普通の親って、子供の行く末を案じて釣書なり何なり持ってきて、それなりに出会いをサポートする、または強制的に結婚させるものかと思ってたのですが、自分の親についてはその点かなり無関心で、そういったことは全くありませんでした。逆に紹介して失敗するとその人のせいにされるから、などと名言をおっしゃる始末。自分でもいろいろ探して手を尽くしたのですが、結果が思わしくないので恥を忍んで妹にも助けてもらおうと思ったのですが、やはり同じ反応をされました。そういうところは親子だな。よく似ている。

そうやって、時間を無駄に過ごしてきて、ついに年齢も大台に乗って、この先に希望もない。なので、この世を去る決意をしました。正直これ以上生きている意味はないし、生きてる苦痛が多い世界には長く居たくないです。周りの人々は、放っておけば人はいつまでも生きてるものだと甘えているようですが。不慮の事故がなければ、ずっと生きているのか。そうでないことを証明する日が来たようです。

趣味は多いけど、それは生き甲斐ではないし、生きる苦しみの方が多い。ちょうどいい時期だし、この後最後の思い出にこの時期にしては少し大きめの旅でもしてそれから静かに死んでいきたいと思います。いのちの電話なんて何の役にも立たんな。やる気のないボランティアに愚痴っても何も解決しない。もし死んでほしくないのなら、借金を返済して嫁を紹介してもらいたいです。今までであった女性は、たいてい1ヶ月以内に居なくなるか、そうでなければかなりの金銭を負担させるか、そういうタイプしか居ませんでした。クジ運なんでしょうか?それにしては悪すぎる。ゲートキーパーwwwってなんなんですかね?うちのゴールはガラ空きだよ。周りに人を見てもとても助けるような感じは見られない。勝手に逝けよと言わんばかりです。そうですか、じゃあそうさせてもらうわ。

今までお世話になった、というかお世話をしてきた人が訝るといけないので、ちゃんと遺書も書きました。そこに彼らへの忌憚のない言葉を綴っています。ただ利用するだけだった人、無関心だった人に向けて、なぜ自分が死ななければいけないのか、その理由も分かるように書いたつもりです。納得するかしないかは知ったことではないですが、表現に齟齬のないように気をつけて、心を込めて最後の言葉を書きました。自分が死んだ後の始末は、まあ任せるわ。よく、生前の恥ずかしい過去を消したいとか、パソコンは死んだら初期化して欲しいなんてネット上でのコメントも散見されますが、死んだら後がどうなろうと自分には何の影響もないのだから、むしろありのままを見てもらった方がいいのではないでしょうか。

この後もしも奇跡が起きて、死なずに済んだならそれはそれでいいことだと思いますけど、そうなる可能性も低いのであまり考えない方がいいでしょうね。

 

 

 

 

 

 

もしも、運がよければ(悪ければ)生き続けているのかもしれませんが、どうなんでしょうね。

家族というものについて

家族といえば何を指すものでしょう。普通は親とか兄弟とかそういう人を指すのだと思いますけど。ただ、それは学生までの思考ではないかと思います。

大人になり、社会人になり、さらに歳を取ると自分の周りにいる家族というものは、親兄弟ではなく配偶者や子供たちを指すのではないかと思います。

マッキーの歌にも、「誰かを愛したその時から家族の意味さえ変わってしまう」というのがありましたけど、それこそが家族というものが親兄弟から次第に配偶者(妻)や子供にシフトしていくことを表しているのではないでしょうか。

自分も僭越ながらいつかは自分の家族を持ち、家族を養うものだと思っていました。子供の頃は、人はみな大人になれば自動的に結婚して、勝手に子供が発生して家族というものを手に入れて、それを守り育てるものだと根拠もなく信じていました。

そして、自分が結構な年齢になり、それなりに努力もしてきたのに、パートナーに巡り逢うこともできず、ただ日々の苦行につぶされて無駄に歳を取っているという現実に気付かされたのでした。

外に出て、ふと周りを見ると、街角や電車の中などで家族連れを見ることがあります。10年以上前であれば、自分もそのうちパートナーに出会って、こんな風に家族を持つのだろうと漠然と考えていました。ですが、すべての努力が無駄に終わり、婚活サイトなどにかなりのお金を浪費したにもかかわらず何の成果も挙げられないまま、生涯未婚にカウントされる歳が近付いてきた時、現実から目を反らすこともできなくなりました。

こんな言い方をするのも変ですが、自分もそんなに悪いDNAを持っているわけではない、一応名の通った大学を出て、何とか世間の平均年収を超えるぐらいはもらえている、少なくとも中央値よりはずっといい給料を稼いでいる。でも、家族を持つことができなかった。昔は自分の子供に色々教えて立派な人間に育つように、親のように間違った教育だけはすまいと心に決めていました。

ですが、ここまで年齢を重ねてしまって、まだ男性の方が年収に拠るところが多いので、挽回できなくはないと言われていますけど、楽しそうな家族連れ(時に大音量で泣き叫ぶ小さな子)を見ていると、もう日本の将来は彼らに託せばいい、自分はこのまま静かに現世からフェードアウトするのがみんなの為なのではないかと考えるようになってきました。

♫生きてる理由なんてない、だけど死にたくもない、そうして今日をやり過ごしてる・・・。そんな歌もありましたけど、生きてる理由はもうないでしょうね。死にたくないか?と聞かれれば、死ぬことに恐れはない。このまま生き恥を晒すよりはマシだろうと答えるでしょうね。

かと言っていきなり理由やきっかけもなくフェードアウトすると変なので、それなりに節目の所で消えるのが良いのではないかと思います。それまでに状況が好転して、先の人生が見えるなら、それに越したことはありませんけど、果たしてどうなのか?まだ半年ぐらいは考える時間があるようなので、ゆっくり考えたいと思います。その後は今は考えないようにしようかなと。

いのちの電話:TOPページ | 一般社団法人日本いのちの電話連盟
東京都 東京いのちの電話 03-3264-4343

だそうです。ご参考までに。

バス特の思い出

関東圏(東京、神奈川、埼玉、千葉)のバス会社には、かつて共通バスカードなるものがありました。それが、PASMOに移行するとかで、その割引(プレミアム)を引き継ぐ形でバス特(バス利用特典サービス)なるものが適用されておりました。ですが、それもある時を境にICカード(PASMO)の普及に一定の役割を果たしたなどという全くもって理解不能で理不尽な理由により廃止されてしまいました。

唯一残った都営交通(都バス)についても9月30日限りでこの制度が廃止され、都営交通に限っては独自サービスのToKoPoにシフトされることが発表されました。前回投稿では、バス特を廃止した事業者を書きましたが、結局全廃という結論でしたね。訂正してお詫び申し上げます。

そもそも、バス特の前身の共通バスカードは一定額の事前購入によってプレミアを与えるものでした。5000円のカードを事前に購入すれば850円のおまけをあげる。そんなお得な制度と言いますか、共通回数券のようなものでした。それが、PASMOに移行されバス特になり、表面上は同じ制度を引き継いでいるように見えましたが、実際は改悪だったと記憶しています。

共通バスカードであれば、期限は存在せずいつ利用しても5000円に対して850円のプレミアが付きました。ところが、バス特では1ヶ月の利用に対して1000円ごとにプレミア(バスチケット)を付与し、5000円分利用すればトータルで850円のプレミアを付与するという制度に変わりました。これが実はくせ者で、月が変わればそれまで4990円分利用していてもリセットされ、先月の利用がなかったことにされる、その意味では改悪であったと言えます。

自分は通勤でバスを利用していましたので、自動的に一定額に到達しある程度はプレミアの恩恵を受けることができましたが、週に1度程度しか利用しない人にとってはぼ現金利用のようなものではなかったかと思われます。その時点でも大改悪であったわけですが、今回その制度そのものがなくなってしまい、ICカードを使っても現金利用にほぼ等しい状態となってしまいました。現金は10円単位に対し、ICカードは1円単位なので、料金帯によっては数円程度得をする程度です。東京、横浜、川崎などの均一料金区間では現金とICカードの料金に差分がないため、ICカードを使うメリットは失われたと考えております(キャッシュレスという基本は除いて)。

なるほど、コロナ禍によって外出の機会が減り、それに比例してバス利用も減少するから収益を確保するためのやむを得ない手段でした、というならまだ分かります。ですが、理由をICカードの普及のためですなどと論理のすり替えを堂々と行って自らの行為を正当化しようとする関東バス事業者の姿勢には甚だ疑問を持たざるを得ません

正直言って、バス特が廃止されてからバス利用する機会はめっきり減りました。メリットがありませんからね。地域によってはバス路線しか交通手段がないため、仕方なくバスを利用する人もいるでしょう。ですが、自分は意図的にバス利用を避けるようになりました。幸いJRなどを使えばほぼ代替手段となるからです。それは果たしてバス事業者にとってメリットであったのか?小金を惜しんで大金を逃しているのでは?そうでないという判断なら、別にそれに反駁する理由もありませんので、どうぞご自由にと言いたいです。

システム的にお金がかかるわけではないし(バス特の付与をON/Offするだけですからね)、できれば復活してほしいのですけれど。考えてみれば、鉄道なら座ることができるけどバスだとかなり前から並ばないと座れないので、そう言う意味でもメリットは薄いですし、何より運賃が高い!それでも使ってあげたのは、バス特があったからですよ。それを投げ捨ててメリットがあったのか。あったんでしょうね。ならば勝手にしてください。結論としては弱いでしょうか。ですが、それ以上にコメントもありませんので。