とりあえず、アドラー勉強中ということで、ここまで感じたことをちょっと書いていきたいと思います。本当に思ったことを書くだけなので、中途半端きわまりない文章になるであろうことを最初にお詫びしておきます。
アドラー心理学(便宜上そう呼ぶことにします)のテーマの一つに課題の分離というものがあります。自分と他者の課題を分離すること。例えば、自分の子供に(自分にはまだ子供はいませんが)勉強しなさいと命令すること。これは、アドラー心理学上はNGとされています。親は子供に勉強することの必要性を説き、また必要に応じて教材を買い与えたり、学習塾に行かせることはできる、ですがそこで勉強するかしないかは子供次第です。イギリスの諺にこんなものがあります。「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない(You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.)」馬を水辺に連れて行くのは自分の課題だが、そこで水を飲むかどうかは馬の課題である。つまり、自分にはどうすることもできない。分かりやすく言えばそういうことらしいです。
ところで、世の中には自分の課題に介入する人が多くいます。お前は仕事が遅い、お前の仕事は質が悪い、と言った具合に。仕事をこなすのは自分の課題ですけど、それを批判するのは上司の課題であって自分の課題ではないです。こいつは仕事が遅いと思ったら、それなりの分量の仕事を与えるとか、もう少し仕事の早い人に振るとか、そういうのが上司の課題であり、義務ではないでしょうか。
課題を分離すること、それは他者への介入をしないことです。それだと、子供が勉強しない、部下がサボってばかりだ、と非難されそうですが、子供はあなたではないし、部下もあなたではありません。ただ、子供は勉強しなかったら将来いい大学には入れず、就職も苦労して結局ブラック企業でこき使われることになるだろうし、部下が仕事をサボったら評価は上がらず、給料も上がらない、さらにはリストラの最有力候補になるでしょう。それは他人の課題であって、あなたの課題ではないです。子供がブラック企業に入って、引きこもりになったら親がダメージを受けると言う事態も想定されますが、それでも子供の課題は自分の課題ではないと割り切る必要があります。
もう1つアドラーの主張として、承認欲求を捨てることというのがあります。社会生活においては他人に認められることで、自分の地位を確立するものだ。そう信じてきましたが、承認欲求が過ぎると他人の顔色をうかがって仕事することになる、新しいやり方を思いついたのに上司にそんなのできるわけねーよと一蹴され、元の非効率なやり方を続けないといけない。自分の仕事をこなすのは自分の課題であり、それを評価すること(どう思うか)は周りや上司の課題です。会社では結果さえ出せば誰も文句は言えませんから、自分の課題に真摯に取り組むことが大事かと思います。
あとは、自由について。自由という言葉はとても難しいです。でも、傍若無人に己の欲望のままに振る舞えという意味ではないです。神様が見ていなくても自分にできることを続ける、自分の課題を淡々と遂行するということでしょうか。自分は神様なんて信じてませんが、自分が共同体(自分の所属する社会)に対して何ができるか、これを共同体感覚というようですが、それを持つということが大切です。
本のタイトルの「嫌われる勇気」ですが、どうもNさんはこの辺り理解されていなかったようですけど、嫌われろという意味ではないです。自分と他者の課題を分離し、その結果思い通りにならない自分に対して他者が嫌ってくることがあるかもしれないが、それを恐れてはいけないという意味です。自分は、変わり者であると自覚してますし、周りに迎合するつもりもありません(承認欲求を捨てたことになるんでしょうか)。自分の人生を自分に正直に生きていくことが大事なことではないでしょうか。ようやく、半分読み終えたところなので、まだまだ中途半端な事を書いてるかもしれませんが、次回からは軌道修正できることを期待して。。。